Vol. 13 西太后
絶対的権力と翡翠(ひすい)への情熱を追求した清朝末期の権力者
西太后(1835-1908)は清朝の咸豊帝の妃で、同治帝の母。1861年に皇帝が崩御した後、即位した息子の後ろで摂政として政治に介入しました。同治帝が若くして崩御すると、妹の息子を光緒帝として即位させ死ぬまで権力の中枢に居続けました。
約半世紀続いた西太后の支配は、政府の長期的な堕落を深め、国の困窮と分裂を悪化させました。国民の声には全く耳を傾けず、その地位を利用しての権力欲と物欲を追求し続けました。
2000年以上にも渡って、翡翠(ひすい)は中国宮廷の正式な宝石でしたが、西太后はどの宝石よりも翡翠を愛し、自分の周りを翡翠で埋め尽くしていたほどです。素晴らしいダイヤモンド・ジュエリーの贈り物には見向きもしなかったにもかかわらず、小さくても美しい翡翠の贈り物を持ってきた訪問者は歓迎したそうです。
西太后の肖像画に描かれているのは、巨大な翡翠と真珠の髪飾り、3000個もの大きな天然真珠と素晴らしい翡翠の房のついたケープ、翡翠のブレスレット、翡翠のリング、そして指先には7センチもある翡翠のプロテクターを身に着けたものです。
西太后の食卓は、箸、茶碗、皿ともに翡翠のもの。使わない翡翠は3000個もの黒檀のジュエリーボックスにしまわれていたそうです。
中国が日本と戦うための軍備増強が必要だったときに、西太后は夏に過ごすための別荘建設に多大な費用を費やします。1900年の義和団の乱により、清朝は衰退の一途をたどります。西太后の側近たちは彼女の翡翠のジュエリーなどを盗んで売り払ってしまったそうです。