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高品質でお手頃価格のジュエリーを買うならココ!シンプルな1カラットピアス、ペンダント、リング、セットジュエリーから、ゴージャスな一点ものまで、宝飾業界20年以上のキャリアで米国宝石学会宝石鑑定士(GIA・GG)の店長がセレクト。大人の女性が気軽に楽しめるコストパーフォーマンスの良いジュエリーをお届けします。

Vol. 1 御木本幸吉 (1858-1954)


ミキモト創業者・真珠王



御木本幸吉は、安政5年(1858)に、志摩国(現在の三重県)に生まれました。明治11年に上京し、横浜で真珠の売買を見学したことがきっかけで、生涯、真珠とかかわっていくことになります。

明治21年に英虞湾で真珠貝の養殖を始め、明治23年には上野で開催された第3回内国勧業博覧会に真珠、アコヤ貝、真珠入り物品等を出展しました。その頃の真珠は、現在の丸い真珠ではなく半円型で、しかも偶然できるものと考えられていました。

彼は、この博覧会において、審査官である大学教授から真珠は人工養殖できるかもしれないと言われ、真珠養殖の研究に取り掛かりました。4年間の研究の末、明治26年に、養殖したアコヤ貝の穀(から)の内面にコブのような半円形の養殖真珠を造り出すことに成功し、最初の特許権を得ました(特許第2670号、明治29年)

この成功をもとに、その後も円形真珠を人工養殖で造るための研究を続け、明治41年に真珠素質被着法の特許権を得て、宝飾品としての真珠の価値を高めていき、「ミキモトパール」の名前が世界中に知られるようになりました。このほかにも彼は、真珠稚貝の養殖に関する発明等によって、多数の特許権を得て、昭和29年(1954)に96才で亡くなっています。

御木本幸吉は、単に真珠の養殖と真珠貝の養殖に成功しただけではなく、真珠を宝飾市場の中心に位置させるためのあらゆる努力を惜しみませんでした。
その功績は多大なものです。

Vol. 2 キャロル・チャザム (1914-1983)


<<宝石用合成エメラルドを開発した化学者>>



キャロル・チャザムが宝石の合成実験を始めたのはまだ高校生の頃でした。サンフランシスコの自宅地下を研究室にして、ダイヤモンドを合成しようとしたのですが、爆発を起こし、怖くなった隣人たちは警察を呼んだほどでした。

その後、1929年からエメラルドの合成の研究に着手し、6年後には合成エメラルドの生産に成功。品質向上するためには更に数年を費やしました。

1938年にはカリフォルニア工科大学を卒業し、第二次世界大戦の間、デルモンテにて食品合成の研究に従事しました。戦後、チャザムは自身の合成石を世に広めるつもりでしたが、世間はまだその準備ができていませんでした。

心配になった商人たちは、隣人たちのように、法に訴えました。チャザムはその後15年間を宝石業界と役人との戦いに費やしますが、結果的には、高品質の合成石で業界と消費者の関心を得ることに成功します。

たゆまない研究とマーケティングを通して、チャザムは高級合成石の生産者として大成功を収めます。引退後、彼の設立した会社「チャザム・クリエイティド・ジェムズ」は息子たちに引き継がれ繁栄しつづけています。

Vol. 3 ピエール・ギルソン (1914-


多様な合成宝石を生み出した天才



ピエール・ギルソンは宝石合成の先駆者です。彼の会社は合成エメラルド、合成オパール、合成トルコ石、そして、珊瑚やラピスラズリなどの多様な人工宝石を手がけました。アメリカのチャザムと並んで、合成宝石の歴史に名を残す天才です。

ギルソンはフランスの窯業技術の専門家で、フランスのカレーに工場を持つ高級陶磁器会社の経営者です。大学卒業後の1935年に、家業ある陶磁器会社に入社し、技術革新をもたらしました。

キャロル・チャザムの合成エメラルドに感銘を受けた彼は、その後、本業は子供たちに任せスイスに設立した研究室で宝石合成の研究をライフ・ワークとする日々を送っていました。

ギルソンは個人の力で宝石の合成を試み、製法特許を申請せずに秘密裏に宝石の製造をしていました。

ギルソンは合成宝石の熱心な伝道師です。彼は「研究室で合成される宝石は、母なる大地が創り出す宝石にとても近く、その価値を高めるもの」ですが、「合成宝石が天然石の市場への脅威となってはならない」とも思っています。

市場での誤解を避けるために「ギルソン社で生産される合成宝石が正しい販売経路をたどれるように、研究所にて生産された宝石であるという証明書付で販売する」ことを明言しています。

ギルソンは1990年代におそらく高齢のために合成宝石の製造を止めました。その技術は窯業会社を経営する家族に引き継がれることもなく、天才の一代限りの趣味の技術として宝石の歴史に名前を残すことになりました。

Vol. 4 パロマ・ピカソ (1949-


偉大な芸術家を父に持つティファニーのジュエリーデザイナー



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世紀を代表する芸術家であるパブロ・ピカソの娘であるパロマ(スペイン語で鳩の意味)。彼女が4才のときに両親が別れましたが、彼女は1960年代半ばまで毎年夏は父親のところで過ごしました。ピカソの家は宝物とクズ(ピカソは捨てるということをしなかった)、風変わりな家具などで溢れていたそうです。

父親という大きな影に影響されないように、パロマは子供の頃から自分らしさをもつようにしていました。初めてした仕事はフランス映画での女優で、殺人を犯す伯爵夫人の役でした。その後、アルゼンチン人の映画監督・脚本家で後に彼女のビジネスパートナーとなるラファエル・ロペス・サンチェスと結婚。

香水の広告では世界中の注目を浴びました。その後、パロマはティファニーのためにユニークなジュエリーのデザインをしています。彼女は国際的なトレンドセッターであり、また完璧なスタイルの女性として知られています。

パロマは父親にサインを求めるファンたちに囲まれて20世紀最高の芸術家と暮らしたときの興奮を今でも覚えていると言います。「あの頃に父親と一緒に過ごした日々は私にとって、とても素晴らしいプレゼントでした。引き継ぐものがあるのは魅力的なことですが、自分らしいことをするのが大切です。」

これから彼女から生み出されるものは、やはりとても「オリジナル」なものであり続けるのでしょう。

Vol. 5 クレオパトラ (紀元前69-30)


真珠を飲んでしまった!エジプトの女王



ローマ帝国の征服者にも国民にもクレオパトラの名前は恐れと嫌悪を覚えさせたものです。

クレオパトラはプトレマイオス7世の次女で、紀元前323年~31年までエジプトを統治したマセドニア王国の最後の支配者です。彼女の名前が有名になったのはローマとのつながりからです。ジュリアス・シーザーとアントニウスの心を射止め、ローマの歴史上で決定的な役割をになうことになりますが、彼女の政治的キャリアは失敗に終わり、最後は国民からの恥辱と処罰を避けるために自殺しました。しかし、クレオパトラは、シェイクスピアやバーナード・ショーのような偉大な作家たちにより「偉大な恋人」として普遍化されました。

「ナイルの女王」は、欲深く、浪費三昧な生活ぶりと、ロマンスのための征服欲で悪名高く、贅沢を尽くした金やジュエリーを愛したことも伝説となっています。

アントニウスのために催した宴会での有名なエピソードがあります。クレオパトラはアントニウスに未だかつて無いほどの贅を尽くした宴会を開いてみせると豪語し、二人はそれができるかどうかの賭けをしました。翌日の晩餐会は素晴らしいものでしたが、アントニウスが今までに毎夜のように過ごしてきたものとほとんど変わらなかったため、自分の勝利を宣言しようとしたその時、クレオパトラは微笑みながら侍女からビネガー(酢)の入ったワイングラスを受け取り、その中に世界に二つとない最大級の真珠のイヤリング(一国の領地を買えるほどの価値あるもの!!!)のひとつを投げ込み、ゆっくりとグラスを揺らして真珠を溶かすと、飲み干してしまったのです!

言葉に詰まったアントニウスの前で、クレオパトラはもう片方の真珠のはずしてアントニウスに同じことをするようにと薦めたのですが、ここで審判が押しとどめて、この賭けはクレオパトラの勝利となったそうです。

Vol. 6 フリードリヒ・モース(1773-1839)


モース硬度を考案した鉱物学者



ドイツ人の鉱物学者、フリードリヒ・モースは、ひっかきや磨耗に対する強さを表す鉱物の硬度表を初めて開発した人です。鉱物間で硬度の違いがあることは以前から知られていましたが、鉱物学者はすべての鉱物を比べることができる目安を必要としていました。

モースは10種類の鉱物をひっかきに対する硬さでランク付けをし、硬度1のタルク(滑石)から硬度10のダイヤモンドまで、任意の番号を設定しました。ただし、この分類法は硬さの量的測定ではなくて、あくまでも順位を示すものですが、現在でも広く標準的に使われています。

モースは結晶の研究にも寄与し、19世紀の科学者たちは彼の研究成果を基に応用・発展させました。

モース硬度は現在でもジュエリーの仕事に携わる人で知らない人はいないでしょう。

モース硬度

鉱物名

和名

タルク

滑石

ジプサム

石膏

カルサイト

方解石

フルオライト

蛍石

アパタイト

燐灰石

オーソクレイズ

正長石

クオーツ

水晶

トパーズ

黄玉

コランダム

鋼玉石

10

ダイヤモンド

金剛石



Vol. 7 エリザベス・テイラー


ジュエリーと男性を愛する伝説的女優



ジュエリーと男性を愛するエリザベス・テイラーは、何度もの結婚を繰り返し、世界中で最も高価なジュエリーを所有していたことで有名です。1932年ロンドン生まれ。子役スターとして映画の仕事をはじめ、世界を魅了する絶世の美女に成長。

4番目の夫で歌手のエディー・フィッシャーと結婚していたときに「クレオパトラ」のセットでリチャード・バートンと出会います。この不倫関係はマスコミをにぎわせ、離婚に発展します。テイラーとバートンは2度の結婚を通して15年間の情熱的な日々を過ごします。世界各地に宮殿のような家を持ち、王侯貴族のような生活をしていました。バートンは彼女にセーブルのコートやヨットや素晴らしいジュエリーの数々を買い与えます。

1969年にバートンはテイラーにニューヨークのカルティエで大きなペアシェイプのダイヤモンドを110万ドル(その頃で最高額)買いました。

1978年の離婚後、テイラーはこの「テイラー・バートン」と名づけられたダイヤモンドをテキサスの石油王に280万ドルで売却しました。実は彼女はこのダイヤモンドをぶつけて「欠け」を作ってしまい、クラリティーグレードはIFからVVS1になってしまっていたのですが…

テイラーは健康問題に悩まされ続けました。1960年に最初のアカデミー賞受賞の直前に肺炎で死にかけ、1980年代には薬物とアルコール中毒に悩まされ、肥満とも戦います。

1987年にウィンザー公爵夫人のジュエリーコレクションがオークションにかけられたときに彼女はダイヤモンドのクリップを落札しています。

何年もの間、彼女はアフリカ飢餓撲滅などの社会貢献に寄与しており、エイズ撲滅基金の設立もしています。

Vol. 8 サルバトール・ダリ

妻への愛の表現として宝石彫刻を作った芸術家

サルバトール・ダリはジュエリー制作という芸術にシュールレアリスム(超現実主義)を重ね合わせたスペインの芸術家です。彼の絵画や彫刻で追及したテーマを表現した非凡なジュエリーにはダイヤモンドや貴石が使われています。彼のジュエリーはどれもドラマチックな物ばかりで、デザインのアイディアはとても斬新なうえに、加工技術も素晴らしいものです。

1904年にスペインのフィゲラス生まれ。ダリは若手芸術家としてバルセロナやマドリッドで様々なスタイルやテーマを探求し続けます。彼に多大な影響をあたえた2つのものがありました。それは、ジークムント・フロイトとパリの芸術家たちのシュールレアリスムでした。非合理性の有形化を目的とした手法「偏執狂的・批判的方法」を提唱し、主に2つ以上のイメージを重ねて描くダブルイメージの作品を描きました。

偉大な才能を持った画家であると同時に、かなりの自信家でもあり、天才であることを自称していましたが、そのほとんどはパフォーマンスでした。

マドリッドの王立アカデミーで美術を学び、1926年バルセロナのダルマウで初個展を開催し、同郷であったピカソ・ミロらの注目を受けますが、在学中アカデミーの古典主義的な教育方針から衝突を起こし、国王の命により永久追放となりました。

1929年パリ滞在時にシュルレアリスム運動に参加。卓越した技術で夢想的なイメージを描きシュルレアリスムの先進として世間から注目を集めました。その頃、ガラ・リーナと出会い結婚、第二次大戦を避けるために渡米しました。商業的な肖像画や作品を描いたために他のシュールレアリストたちから非難を受けました。大戦後は故郷スペインのフィゲラスに戻り、以後永住しました。1989年、心臓発作により84年間の生涯を閉じました。

ダリと言えば、シュールレアリスト、独特の口髭、奇矯な言動が有名ですね。有名な絵画作品としては「記憶の固執(軟らかい時計)」や「変形した肉体」などがあります。

Vol. 9 アルバート・マンセル


宝石の色の表現に使われる「表色系」の開発者


アメリカの画家、美術教育者であったアルバート・マンセルは美術を科学という分野と融合させ、双方の分野に多大な貢献をした人物です。

1858年、ボストンに生まれたマンセルは幼少の頃から芸術的才能を見せます。マサチューセッツ州立芸術大学卒業後には母校の講師となり、その後、奨学金を得てパリの芸術大学に留学、構造分析・遠近法・構図の分野で表彰されカトリーヌ・ド・メディチ奨学金を取得しローマで学びます。

帰国後、色彩表示についての研究を開始。色の組成を始めは「円」で表現し、その後、「球体」に進展させます。

マンセル・カラー・システム(Munsell color system)は、色の3属性(色相・明度・彩度)に基づいた色彩を表現する体系(表色系)の一種です。色という概念を系統的に扱うため創り出された体系です。色の名前の付け方が曖昧で誤解を招きやすいことから10進数を使って合理的に表現したいと考え、このシステムを完成させました。

1905年にその成果を「Color Notation」(表色)という本で発表しました。その後1943年アメリカ光学会(OSA)が視感評価実験による修正を加え、これが現在のものとなっています。マンセルの新版書籍「Munsell Book of Colors」は現在でも使われています。

表色系は各種ありますが、マンセルの表色系は美術、デザイン分野でよく使われ、宝石の色を表現するにも、これが使われています。

Vol. 10 ルネ・ラリック


アールヌーボーのジュエリーデザイナー


1860年フランスのシャンパーニュ地方生まれ。子供の頃に過ごした自然環境が彼の後に多大な影響を与えます。17才のときに有名な宝飾細工師に弟子入りし、ジュエリーの制作技術を学びます。その後、独立しジュエリー制作の工房を開きます。

1884年に開催された芸術博覧会に展示したジュエリーのデザイン画が「革命的」とまでに評され、ジュエリー業界のお歴々に認められます。

1885年に自分の店を持つようになってから、ラリックの創造力には火が着きました。最高の職人を雇い、それまでにはジュエリーには使われることの無かった素材の組み合わせ(ダイヤモンドや貴石とガラスや角)のジュエリーを制作します。出来上がったジュエリーは素晴らしく、オリジナルで、真似のできないもので、王侯貴族やセレブは、ラリックのジュエリーを絶賛しました。

ラリックはガラスとエナメルを使い、果物・白鳥・蛇・蜜蜂・カブト虫・蝶々など、自然からのテーマでジュエリーのデザインを描きました。

1900年頃までにはラリックの名声は世界的なものとなり、彼のデザインはアールヌーボー芸術を形づくることに寄与しました。

ジュエリーの他にも、香水瓶や建築装飾なども制作しました。オリエント急行の装飾は有名です。第一次世界大戦前にラリックはジュエリーの制作を止め、ガラス制作にシフトしていきました。

豊かな才能を発揮したラリックは1945年にフランスで亡くなりました。

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