Vol. 19 ハリー・ウィンストン(1896-1978)
伝説的ダイヤモンド宝石商
「偉大なるダイヤモンドは生きていて、話しかけてくる」とハリー・ウィンストンは言ったという。
彼は1896年、ニューヨークの宝石商の息子として生まれました。12才の時、質屋の前を通り過ぎたときに、カラーストーンが並んだ「どれでも25セント」と書かれた棚があるのに気付きました。その中からエメラルドを選んで2日後に売ると、それは800ドルになったそうです。
20才前には、ウィンストンはエステート・ジュエリーを仕入れ、ニューヨークのダイヤモンド取引所で売っていました。1932年にニューヨークの五番街にハリー・ウィンストンを開店しました。彼は1935年にヨンカーダイヤモンドを70万ドルで買うまで卸売をしていました。大不況の時代にそのような高額品を買ったことにより彼の名前は一夜で有名になりました。
それまでは、多くのディーラーが大きなダイヤモンドは好ましからざる投資と思われていましたが、ハリー・ウィンストンは大きなダイヤモンドそのものには神秘性があり、買い付けたものを、大々的な宣伝をしながら世界中の富裕層に販売していきました。ハリー・ウィンストンは60以上もの世界中の大きなダイヤモンドや有名なダイヤモンドを商いました。
プレスの注目を引いていたにもかかわらず、ウィンストンは彼の保険会社が「印刷物に写真が掲載されると保険をキャンセルする」との契約があったために、写真に撮られることを頑なに拒否しました。このことがウィンストンの神秘性を高めました。
彼のビジネスはニューヨークを本拠とする卸売と、プエルトリコやアリゾナの工房で展開されていました。1955年にはウィンストンはアンゴラのダイヤモンド購買について10年間の契約をしました。デビアスはサイトから彼を締め出す報復に打って出ましたが、その後、示談が成立しました。
1974年にウィンストンはダイヤモンド史上最大の購買に参加します。たったの一分で、ウィンストンはデビアスのハリー・オッペンハイマーとカットされていないダイヤモンド原石に2,450万ドルで交渉を成立させました。
セールスマンとしてハリー・ウィンストンと並ぶ人はいなかったそうです。あるロンドンのダイヤモンドのブローカーはこのように言っています:「彼がセールスをしているのを見るのは、最高の舞台での偉大な俳優を見ているようだ!」
ハリー・ウィンストンのジュエリーはダイヤモンドそのものの美しさを際立たせるよう、金属を見せないでダイヤモンドだけでデザインされており、これは「ウィンストニアン・スタイル」と呼ばれ、ダイヤモンド・ジュエリーの王道として知られています。