Vol. 31 アレクサンドル2世(1818-1881)
「アレクサンドライト」は彼の最高のメモリアル
1830年、ロシア皇太子の12歳の誕生日にウラル山脈で新しく、美しく、とても稀少な宝石が発見されました。皇太子は後の皇帝アレクサンドル2世、そして新しい宝石は「アレキサンドライト」と名づけられました。この宝石はクリソベリルの変種で変色効果のあるものです。
太陽光の下では緑っぽく、白熱光の下では赤っぽく変わるアレクサンドライトのように、アレクサンドル2世は異なった環境では異なる特性を見せました。君主としては、厳格な独裁主義者である一方、ロマンティックで自由な一面もあったそうです。
19世紀のロシアは近代工業から立ち遅れた農業国でした。領主の土地で農奴が動力もなく働くという封建制度に依存していたのです。アレクサンドル2世は1861年に農奴解放令を発し、ロシアの資本主義の道を開くことになりました。
これと並行して、地方議会の設置・陪審制の採用などの司法制度の整備・大学の自由の拡充・徴兵制の施行など、後世の史家から「大改革の時代」と評される近代化政策を行いました。
しかし、不十分な農奴解放への農民の不満と、それを批判し、専制政治を打倒しようとする運動の激化、ポーランドの独立反乱などに直面すると、警察・軍隊による力ずくの弾圧でこれに対応するとともに、改革を後退させ、専制政治を強化していきました。このような政策に対して国民のロマノフ王朝への反発が強まり、度重なる爆弾テロが起こりました。
1881年3月1日、ロシア皇帝アレクサンドル2世はテロリストの投じた爆弾により暗殺されました。アレキサンドライトという宝石が彼の最高のメモリアルとなりました。